プロフィール

こんにちは、コバヤシヒロキです。

これは、僕自身の誕生~現在まで、「どんな人生を送ってきたのか」をまとめた物語です。正直、未熟な自分をのぞき見られる感じで・・打ち明けるのは、とても恥ずかしいです。

ですが、読者のために特別に公開します。

もし、最後まで読んで何か感じることがあれば、ぜひ感想のメールを頂けると嬉しいです。

では、僕の過去を話していきます。

実績ゼロ・人脈なし・借金100万円の極貧状態で独立起業

2017年4月にライター業で独立しました。

起業したものの生活できるだけの収入はおろか、お客様と契約できませんでした。

当時、住んでいた東京都大田区、近隣の品川区にある店舗へチラシと名刺を自転車で配りに行っていました。さらに、一人でネットを使い、HP作成会社や個人事業主に営業メールを毎日10件ほど送り続けました。

結果は完敗

一生懸命にオファーしてもシカトされることが大半でした。たまたま、提案に対してお返事をいただき、商談をしてもらうこともありました。

しかし、報酬の面で折り合いがつかず成立に至りませんでした。毎月、赤字で借金が膨れ上がる日々をただ送り続けるばかりでした。

それでも独立から半年後、転機が訪れました。

お世話になっていたコピーライターの方の紹介で、物販で月収100万円を稼ぐ方を紹介していただきました。

そのときは、

「物販やるために独立したわけじゃない」
「自分は不器用だから、ちゃんと梱包できない」
「お金がない・・」

と言い訳を並べ、紹介を断る準備をしてました。

しかし、このままでは借入もできなくなり、事業をやめて実家に戻らなくなることを考えると、とにかく実績と資金をつくらないと生き残れない状態でした。

とはいえ、物販で成果を出せるか不安で仕方がありませんでした。なので、まずは自己アフィリエイトや不用品販売をやってみました。

すると、自宅にあった潜在意識のDVD(教材)が1万9700円で売れました。さらに、自己アフィリエイトで10万円ほどの報酬を確定させることができました。

この小さな達成があったことで物販をやることを決意しました。

所持金20万円・クレジットカード4枚を元手に「3ヵ月30万円で物販コンサルティング」を受けることになりました。

この決断が毎月の収支が黒字、借金完済のターニングポイントとなったのです。

それから、その方から物販の手法を教えてもらい、収益を出し続けようになりました。

独立から8ヵ月目にして赤字生活を脱出し、働く時間と場所の自由を手に入れつつ、1人で毎月の安定収入を得られるように。

転売を始める前までは、モノを販売することに抵抗がありました。

しかし、実際に教わったことを1つずつ実践していくうちに結果がついてきて、稼げる自信がグングン湧いてきました。

転売を始めてから 3カ月で34万円、5か月目には約50万円の現金が銀行口座に振り込まれるようになりました。毎月の収支が赤字状態から抜け出し、借金返済の道を歩み出しました。

ここまでは独立してから「0→1」をクリアするまでの話でした。

ここからは、失敗ばかりの僕がこれまでにどんな人生を送ってきたのかを恥ずかしい過去を包み隠さず話していきます。

九死一生を得た幼児期

1990年3月12日に長崎県長崎市で、4人兄弟の末っ子として誕生しました。

誕生してから2年後に一度、命を落としかけました。

当時、住んでいたマンション4階のベランダから誤って転落したのです。最初は兄がベランダで遊んでいる様子をただ見ていましたが、次第に僕自身も遊びたくなってマネしたんだと思います。

が、ものの見事に、真似に失敗しました。

普通に地面に直撃していたら、死んでいたと思います。

しかし、奇跡が起こりました。

運よく、着ていた洋服が木の枝に引っ掛かり、小さな身体が地面に叩きつけられることなく、結果的に「骨折」で済みました。神様から命を救ってもらいました。

それから、幼稚児のときは友達と一緒に園内から脱走したり、先生からの課題をサボったりする問題児でした。

野球バカで弱気な小学生

小学校に入学してから1カ月後に友達の影響で野球チームに入りました。

最初はものすごく下手クソでした。初めてやったキャッチボールで同学年のチームメイトが投げたボールが顔面に直撃し、鼻血を出しました。他にも、練習や試合で打てなかったり、守備でエラーしたりすると、悔しがったり、泣いたりして感情を露にしていました。

小学生の頃は、ほぼ『野球バカ』と言われるほど、野球ゲームを含めて、野球に没頭していました。

学校の成績は5段階中、“2”か“3”で悪い方でした。

小学4年生の12月、国語の授業でスリランカの鉱山で働く人をテーマとした授業の最中に突然、小刻みに震え出しました。

それを見たクラスメイトが、

「わぁーあいつ震えている」
「ブルブル野郎」
「お前って、弱いよな」

と傷つく言葉を無情にも、僕自身にストレートでぶつけてきました。このとき、相手に立ち向かっていく勇気があれば良かったのですが、ひるんでしまい、後に2週間ほど不登校になりました。

他にも、少年野球チームの試合で監督からピッチャーをやってくれと言われると、心臓がバクバクしていました。冬場の基礎体力を鍛える練習で、キツくなると足が痛いからという言い訳で、チームメイトを差し置いて練習を放棄することもありました。

嫌なことから逃げ続ける人生

中学入学後に全国大会で優勝経験のある硬式野球チームに入部しました。

このとき、両親に入部費20万円、月謝1万円を出してもらっていました。父親は趣味のゴルフを我慢し、母親は下着を買うのを我慢し、僕の養育費にお金と時間を投資してくれました。

しかし、上下関係の厳しさを理由に入部からわずか半年で退部しました。

厳しい状況を少しでも避けるために、平日は友達の家で1時間ほど遊んでから練習に参加することが当たり前でした。

本当に野球の練習に行くのが嫌でした。

他にも、夏休みに練習へ行く途中でわざと倒れ、病院に救急搬送する事態をつくり出しました。わざと意識不明の状態を演じ、入院することになりました。

このことをキッカケで「硬式野球チームを辞めてもいい」と両親から許しを得ました。当時はどれだけ両親が汗水垂らして稼いだお金を注ぎ込んでくれていたのか、何も感じ取れませんでした。

今思うと、

なんで、親が一生懸命に働いて稼いだお金をドブに捨てるようなことをしてしまったのか

と自分自身を責めてしまいます。

それだけではなく、中学時代は両親の財布から千円札・一万円札を抜き取ったり、お店のお菓や本、ゲームソフトを万引きしてました。

不良グループにコキ使われたり、お金を要求されたりすることが日常茶飯事でした。学校内で不良連中と会うと、何かしらのチョッカイを受けるので、彼らがタムロしていないルートを選択肢して通るようにしました。

それだけでなく、学校の成績も悪かったです。

中学3年生になるまで宿題を除き、家で勉強することは一度もありませんでした。テスト前日でさえゲームセンタ―に行き、閉店寸前まで競馬の育成ゲームにどっぷりハマり込んでいました。

その結果・・

中学2年生まで学年130人中110番目で、第一希望の進学校に合格できない

と言われていました。

ちなみに、将来の中学 2 年生の頃の夢は『気象予報士』『弁護士』になることで、両親やクラスメイトから散々バカにされてきました。

「頭悪いのに、夢だけはイッチョ前にデカいもの掲げているんだなぁ」

と言われてきました。

かなり悔しく、顔が真っ赤になったのを今でも鮮明に思い出します。才能はありませんが、プライドは高かったと思います。そんな、イジられ、バカにされ、勉強できない落ちこぼれのような僕ではありましたが、人生が大きく変わり始めました。

勉学の道で開花

高校受験を機に、今後の進路を考え始めてから人生初の転機が訪れました。

なぜか当時、第一志望の進学校に行き、その後は国立大学に入学する目標を抱いていました。この想いが自宅で勉強する習慣をつくる“キッカケ”となりました。

これまでは苦手なこと、嫌なことに出会うと一足先に『逃げる』選択をし続けてきました。

担任の先生から

「志望校のレベルをワンランク下げないか?」

と話を持ち掛けられましたが、頑なに拒否しました。以前でしたら、何の理由もなく進路を変更していたと思います。

このとき、スポーツ・勉学のどちらか1つを選択することを迫られていたのかもしれません。そこで、僕は『勉学』を選び取り、高校受験の勉強に取り掛かりました。中学3年の夏から半年間、毎日のように夜中2時頃まで必死に勉強して偏差値を35から60へ上げました。

その結果、

運よく第一志望の進学校に合格

できました。

もしあのとき、担任の先生から

「志望校のレベルを下げないか?」

と聞かれて、

「はい、わかりました。」

と答えていたら、人に考え方や行動をコントロールされる人生を送っていたかもしれません。ですが、先生の申し出に迷いなく『No!』とハッキリ言い志望校を変えませんでした。

意志を変えず、本当に良かったと思います。

晴れて第一志望校に入学するものの、待ち受けていたのは・・想い描いた高校生活とは、かけ離れたものでした。

対人恐怖症と鬱病を患う

これまでの人生の中で 一番辛い経験を高校生活で味わうことになりました。

事のはじまりは、高校2年のクラス替えで仲の良い友達と離れ離れになったことでした。さらに、仲が良かった同じクラスの女の子に告白してフラれたことも対人恐怖症を患う原因でした。

高校1年生の頃は、クラスメイトと休み時間や体育の授業でワイワイ騒ぎながら楽んでいました。

ただ、新しいクラスでは、親しい友達をつくれませんでした。

「なんで、こんなことになったのか・・」

と思い悩んでいきました。学校がつまらなく、気分が沈んでいくばかりで、楽しさや喜びは感じられませんでした。

授業間の移動で廊下を俯きながら歩いていると、通りすがる人たちから

「アイツ、キモくない?」
「ヤバくない、アイツ?」

みたいなことを言われたりして、繊細で未熟な心が切り裂かれた感覚でした。

人間関係が悪化する一方でした。

それだけでなく、学校の成績も上がらず、国立大学に合格できるレベルではありませんでした。

学校生活が改善される兆しは全くありませんでした。

どうしよもない状況に追い込まれ、人の事も考える余裕がなくなり、自分の世界に籠るようになりました。

ただひたすら暗闇を彷徨う孤独児であり問題児のようでした。

今すぐにでも、学校を辞めて苦しい環境から抜け出したい気持ちに襲われていました。高校卒業したら、すぐにお寺に行き、人間関係の悩みをはじめ、人生全般の相談をしようと思いました。

精神的に酷い状況でありましたが、

「必ず第一志望校の長崎大学に合格する!」

と決意して、高校3年生になってから受験勉強を続けていきました。

しかし、周りの人たちは一気に成績が上がるのに、僕は成績の伸びが鈍かったです。ドンドン周りに成績を追い抜かれ、引き離される展開になりました。

「どうして、こんなことになるんだ!」

と悲劇の主人公のような気分に浸っていました。

人間関係でも勉学でもダメで奈落の底に突き落とされた気持ちでした。

それでも、諦め切れませんでした。

高校受験で経験した『第一志望校 合格』を思い出し、日夜ひたすら大学受験の勉強に明け暮れました。生気を失った浮浪者のように何も考えずに問題を解いては答え合わせを続けていました。

高校受験と同じ現象が、大学受験でも起こる

高校受験で経験した幸運が再び訪れました。

大学受験の1次試験(センター試験)は大失敗でした。1次試験終了時点で長崎大学の合格可能性は10%以下、5段階中の最低ランクでした。

この結果を見た担任の先生から

「志望校をワンランク下げたらどうだ?」

と進路変更を求められていました。

高校受験のときと同じパターンで、志望校を変更する気持ちは全くありませんでした。

「志望校合格は難しいけど、合格の可能性はある」

と、目標達成の可能性を信じて最終試験までの1カ月間、諦めずに試験勉強を続けました。

高校受験のときに引き続き、第一志望校に合格できました。

高校生活では、人間関係で精神面をズタズタにされ、対人恐怖症になり鬱々した日々を送る辛く苦しい
経験を味わいました。

その対価として得たのが『第一志望校の長崎大学に合格』だったように思えます。

これも1つの成功体験であり、大きな経験となりました。

このとき、

「何かを得るためには、何かを犠牲にする」
「楽して成果を残せない」

と感じました。

大学受験、そして卒業式が無事に終了し、暗く高校生活にようやくピリオドが打たれました。

その後、

生まれの地であり、2 歳の頃に命を救られた縁の地でもある『長崎』で再起する

ことになりました。

大学生活では高校時代に崩壊した人間関係、メンタル面を修復して社会貢献できる人間に
成長しようと思っていました。

しかし、思うような状況は訪れませんでした。

金なし、友達なしの苦学生

なんとか息苦しくい高校生活を終え、時間と自由に溢れる大学生活が始まりました。同時に、人生初の一人暮らしがスタートしました。実家を離れて自由な空間を独り占めできる環境を手に入れられて嬉しかったです。

しかし、金銭面・人間関係面で苦労することに。

実家からの両親から

「仕送りはできないから生活費と学費は奨学金とバイト代で支払うように」

と言われました。

以前、兄と姉が私立大学に通っており、そこに高い学費を払ってきたわけです。

そういう事情で

「住宅ローンや老後に備えて貯蓄するため、仕送りできない」

と言われていました。

それでも、2歳の頃に九死に一生を得て命を救ってもらった“長崎の地”で人生をやり直していくことにしました。これまで散々、両親に迷惑をかけた分、これからは少しずつ恩返ししていこうと思いました。

しかし、想像以上に一人暮らしは大変でした。

高校時代に患った人間関係のトラウマが色濃く残っており、外出するのも嫌でした。眉間にしわが寄っていて、表情は硬直してました。

精神的・肉体的暴力を受ける

大学の入学式に参加してくれた父親から、

「お前は人間じゃない」

とボソッと言われたのを今でも覚えています。

それを聞いた瞬間、

「生きている価値あるのか?」

と思い、もういっそうのこと生きるのを諦めようと、わずかながら感じました。身近で大切な人から言われた分、何気ない一言でひどく傷付きました。

大学入学から1か月後に始めたコンビニのアルバイトでは、体育会系の店長から殴られたり蹴られたり、暴言を浴びせられたりして精神的にも肉体的にも暴力を受けることがありました。

僕が仕事でミスしたことが原因でした。

そんなことが約5カ月続き、そのお店で働くのを辞めました。それから3カ月、休養期間と決めて何のバイトもしませんでした。

アルバイトの苦痛から解放されたが、

「このままでは生活していけなくなる・・」

と感じ、時給の高い塾講師のアルバイトを始めることにしました。

しかし、うまくいきませんでした。

恥ずかしがり屋で口下手、すぐに赤面する性格

これが人間関係でつまずく最大の原因なのか、と感じていました。

この性格が悪影響を及ぼしたのか、生徒・先生間からの人気がなく担当の生徒が2人だけでした。勤務日数・給料が少なく、生活の足しになりませんでした。

「1カ月で6800円のバイト代では食っていけない

と思いつつ、すぐに辞めると昔からの逃げグセが治らないと感じ、塾講師のバイトを続けました。

社会人になったら「社会貢献する」と決意をしていたことが、嫌なことからすぐに逃げ出す人生を辞めようと想うようになったキッカケでした。

しかし、生活費だけでなく、年間54万円の授業料も支払っていく為に収入を増やさなければなりませんでした。

なので、塾講師のバイトと掛け持ちで、うどん屋さんの調理場で働くことにしました。

うどん屋のバイトでも、うまくいきませんでした。

働き始めたところはお客さんの数が多く、スピーディーに料理を作り、食器類を洗う必要がありました。僕自身が不器用で、マイペースな性格でもあったため、要求されることを限られた時間で実行できませんでした。

周りの従業員から

「いつになったら、仕事できるようになるの?」
「お前なんか、別に居てもいなくてもいーよ」

と傷つく言葉をシフトに入る度に浴びた挙句、入店後わずか3カ月で辞めました。

塾のバイトも同時にやめました。

「言っている事と、やっている事が違う」

そう思われるかもしれません。

ただ、このときは人間関係や仕事の面で上手くいかなかったから辞めたわけではありませんでした。

収入を増やし生活費と授業料を支払い、さらに貯金をして大学卒業までに「100 万円貯金する」という目標を達成するために安月給のバイトを一気に辞めました。その後、比較的時給の高いコンビニの夜勤のアルバイトをやることにしました。

お金だけでなく極力、人との関りが少ない環境で仕事していこうと思い、夜勤を選びました。夜勤帯は基本的に2人での業務で、商品の補充や店内の清掃などが中心でしたので、仕事がしやすかったです。

なので、この仕事は大学卒業するまで必ず続けていこうと決意しました。

他の従業員からボソボソと陰口を叩かれるなど、居心地の悪さは多少なりありました。それでも、以前のうどん屋さん、初めて働いたコンビニのバイトに比べると充実した気分でお金を稼げました。

週2,3回の夜勤のアルバイトは時給が高く、毎月の収入を増やすことができました。

苦学生からの脱出

塾講師と飲食店のバイトをやめてコンビニの夜勤をやることでお金の余裕ができました。

大学2年生まで続いていた貧乏状態から脱出できました。

それでもお金を無駄遣いすることなく、大事に管理していました。毎月2回は風俗やキャバクラに行き、快楽を味わえるだけの金額を貯金してました。

お金に余裕が生まれてきたものの、生活レベルはキープし続けました。

自宅での食事は自分で炊いた白飯と、近くのスーパーで購入した食品(卵、納豆、味噌汁、魚の缶詰、カレー)で済ませることが多かったです。飲み水は2リットル100円の水を中心に飲んでいました。普段はジュースやお酒をほとんど飲まず、節約生活に徹していました。

その結果、大学卒業までに87万円を銀行口座に残すことができました。

貯金額100万円は実現しませんでしたが。

毎日、コンビニの弁当や飲食店で食事する友人に比べて、かなり質素な生活をしていました。飲食費をカットすると同時に、ほぼ毎日家計簿をつけていました。お会計票にその日に購入した品物と、その金額を記録していきました。おおよそ、収入の50%を貯金に充てる生活でした。

そのおかげで、お金の面での苦労から解放されました。

ただ、大学卒業後の進路決めで苦戦しました。

2カ月で就職活動を諦める

大学3年生の夏から、これまでの生活から一転し、就職活動がスタートしました。

初めの2カ月は、就職ガイダンスなどの講座や説明会に参加することがありました。小学生の頃から『天気』が好き(将来の夢が気象予報士になること)で気象会社に就職したいと想っていました。

しかし、どこの気象会社も新規採用の募集人数が少ないことを知り、

「どうせ、僕は採用されないんじゃないか」

と感じてエントリーを避けました。

他にも、就職先は山ほどありますが、当時は気象会社以外のところで働く意思が全くありませんでした。

結局、わずか2カ月で就活を諦め、大学院進学に舵を切りました。

天気の中でも特に『台風』に興味があり、その研究に強い名古屋大学大学院への入学を志望しました。大学4年の8月に行われた大学院試験で志望していた名古屋大学大学院に合格しました。

ただ、『台風』の研究ができるところには入ることができず、地球温暖化問題の研究を行う研究室に配属されることになりました。

この結果に納得できず、熟考した結果、入学を辞退しました。

「大学卒業後、どうしようか・・」

と思い悩んでいたところ、父親から

「自衛隊に就職してみたら、どう?」

とアドバイスを受けました。

大学卒業後に陸上自衛隊に就職する考えは全く頭の中にありませんでした。

自衛隊に入ると精神面が鍛えられるし、貯金しながら大学4年間に借りた奨学金(約500万円)を返済していけることを考えると、自衛隊に就職するのもアリだなと思い始めました。

とりあえず、入隊試験を受けました。

その結果、筆記試験・口頭試験ともにクリアし、入隊の権利を獲得しました。

入隊することは簡単であっても、その後の訓練がとても辛く苦しいものになるだろうと思うと不安を感じずにはいられませんでした。

まずは、今できることとして毎日、走り込みと筋トレを行うことにしました。自宅が大学の正門横にありましたので、同じ学生とバッタリ出会うことも結構ありました。照れ屋であることもあり、数名の大学生のグループと会うと思わず恥ずかしくなり、赤面することもありました。

(今でも、過去のトラウマから複数の人とすれ違う時に赤面します)

入隊試験から入隊するまでの約5カ月、毎日トレーニングを行いました。そうしているうちに、大学4年間のキャンパスライフも気づけばアッという間に終わり、入隊の時を迎えました。

束縛生活のはじまり

2012年4月、他の友達が一般企業に就職したり、大学院へ進学したりする中、自衛隊に入隊しました。1日のスケジュールが徹底的に管理された『束縛生活』のスタートです。

自衛隊に入ってから最初の半年間は、自衛官としての基礎的な教育を受けます。

ただ、これが自衛官生活の中で最も厳しく辛いものでした。毎朝6時に起床し、3分で戦闘服に着替え、隊舎を駆け下りてダッシュでグランドに行き、教育者全員の点呼があります。もし起床後、5分以内にグランドに到着しないと再び部屋に戻されて、着替え~集合までの流れをやり直しさせられることもありました。

朝一番から汗を垂れ流すときもありました。

他にも、私物も含めて予め決められた場所に物品をキレイに保管する規則があったりして、かなり厳しかったです。もしこのルールが守られていないと、訓練中に何者かの仕業で収納物が部屋中に巻き散らされました。『台風』と呼ばれる現象でしたが、これが2,3回起こりました。めちゃくちゃ片づけが面倒で大変だったのを覚えています。

仕事で使用する物品は基本的に国から支給されたものを使用していました。なので、万が一紛失した場合、発見できるまで教官を含めて全員で捜索することもありました。

訓練では、自衛隊以外では決して経験できないことばかりやってきました。

地面に這いながら前進する『ほふく前進』や実弾で300m先の的を狙い撃つスキルを習得しました。

誰かルールを破ったりすると、連帯責任でペナルティーがありました。10kg近い装具をつけて、2時間ぶっ続けで山道を走らされる事もありました。苦しさのあまり、吐き出したり、泣き出したりする隊員が続出するほど厳しい仕打ちを受けることもありました。

それでも入隊後、半年間の厳しい教育(研修)を乗り越えることができました。

しかし、苦しい環境から解放されることは決してありませんでした。

絶対行きたくない部署へ強制的に配属

半年間の教育が終わったからといって、ラクな環境に身を置けるわけではありません。

配属された部署が希望とは真逆の・・絶対に行きたくないと思っていた部署に強制的に移ることになりました。

僕自身は、本やネットで得た情報を文章にして人に伝えることが得意なタイプであります。また、比較的マイペースで穏やかな性格でもあります。

その性格とは対照的に配属先されたのは『大砲を撃つ』部署です。

考える前に積極的に動く体育会系の人間が集結していました。ノリと勢いで物事をスピーディーにガツガツやっていく人たちが多数いました。

僕自身の性格と真逆の人間が多く、どうしても置かれた環境に馴染めず、1日でも早く辞めたい気持ちを感じてました。

夏場の悶えるほどの暑さの中、1週間ほど山の中で訓練をやることもありました。

真夜中に20kg近い重量の荷物を背負い、山中で40kmの行進をやった後、戦争を想定した攻撃や防御の訓練を行うこともありました。足が痛いから休むとか、キツイから気を抜くなどの甘えが通用しない環境でした。

何とかして、過酷とも思える状況を耐えしのぐことで頭がいっぱいでした。

汗だくでカラダが汚れ切っているのに入浴や歯磨きができません。

山籠りの訓練期間中は1日2時間程度の仮眠しかとれず心身ともに疲労疲弊でした。

これだけならまだしも、上司の感情も荒れ狂っていき、罵声を容赦なくぶつけられることも多々ありました。

今すぐに自衛隊を辞めたいと感じることが数え切れないくらいありました。

脱獄の道を切り拓く

「いつ上司に退職の意思を伝えるか」をいつも考えていました。

一般企業と違い、変に人情に厚い分「辞めさせてください!」と申し出たところで、なかなか承諾してもらえませんでした。

「どうしたら、退職できるのか?」を考え続け、直属の上司だけでなく部署のトップにも相談をしました。そのとき、次に就く職業で役立つ資格を取ることが退職するための最低条件と言われました。

転職希望先は大学3年生の就活のときに志望していた民間気象会社でした。なので、気象予報士の資格を取ることにしました。

気象予報士の資格を取得のために、消灯時間後“1 時間”を上限に上官から許可を得て勉強していました。

気象予報士試験は年2回と、開催頻度が少ない試験です。また、合格率4%と極めて低く難しい試験です。1発目で合格できれば良かったですが、そう上手くはいかず、結局は3度目の試験で何とか合格できました。

そこに至るまで1年8か月間、山地訓練や特別勤務の日を除き、ほぼ毎日のように試験勉強を続けてきました。

周りの隊員は訓練が終わり、駐屯地内にある寮に戻ると、タバコを吸いながら雑談したり、ゲームしたりしていました。そんな中、勉強に打ち込んでいると周りから陰口を叩かれることもありました。

資格取得の勉強をずっとやっているのに試験に合格できないと、

「気象予報士試験に合格できないな」
「アイツ、バカやろ(笑)」
「どんだけ自分勝手なヤツなん!?」

など、傷つくことを言う人が同じ職場にいました。

それでも、

「俺は気象予報士の資格を取る!」

と信じて、休みの日は丸1日、勉強に時間とエネルギーを投じました。

物事を学ぶときに要領は悪く、人より上達するのに時間が掛かるタイプです。それでも、目標達成に向けて、一人でコツコツと行動し続けたからこそ気象予報士の資格を取得できました。

中学2年の頃に掲げた将来の夢を約11年後に実現させることになったのです。

当時は、

「お前は勉強できないから、気象予報士なんかになれるわけがない!」

と、友達や兄弟から散々バカにされていました。

以前はダメでも時間の経過とともに成長できます。

この経験から過去は未来でないという教訓を得ました。

で、気象予報士の資格を取得後、ようやく自衛隊を辞めることを許されました。それから3ヵ月後、束縛生活が幕を閉じました。

思考が現実のものに

自衛隊を退職後すぐに、転職活動をスタートしました。

気象情報を商売(マーケティング)に活用したビジネスをやっていきたい!

と、自衛官のときに想い続けていました。

取得した資格を活かしやく、想いを実現できる会社を探したところ民間の気象会社が出てきました。

まずは、大学3年生の就活時に第一志望だった『株式会社ウェザーニューズ』に応募しました。応募から3日後に1次試験が行われることになり、慌てて面接の準備を始めました。

何とも急な展開で、さすがに面喰いました。それでも無事に飛行機や宿泊先の予約を取れたので「やっぱり運が良いなー」と感じました。前職を辞める前に面接対策の準備に取り組み、いつ採用試験があっても大丈夫な状態を整えていました。

で、いざ試験に挑んでみると筆記試験はなく、書類選考と面接で採用可否が決定されるとのことでした。

1次試験を受けた後、面接官から

「2次試験を1週間後に行いますので、同じ会場にお越しください」

と言っていただけてホッとしました。

まずは、1次試験を突破できました。

1次試験を受ける前は、

「気象業務は未経験で前職が自衛官なら、採用される可能性は低いじゃないかな・・」

と、諦め半分の気持ちでした。採用されればラッキー、ダメでもOKぐらいの気持ちで最終試験に挑みました。

1次試験では部長クラスの方々5名と面接を行いました。が、2次試験では副社長が追加されました。

まさか、会社のナンバー2が顔を出すとは想定していなかったので、ビックリ仰天でした。

別に自分を良く魅せようという気持ちはありませんでした。ただ淡々と、志望動機や希望の部署など質問されたことに答えていきました。

最終面接が終了後、隣に副社長から

「ウチで働いてみるか?」

と聞かれましたので、迷いなく

「はい、お願い致します!」

と即答しました。

それから1週間後に電話と郵送された通知で“採用”の結果を頂くことになりました。

大学卒業から3年4カ月後、第一志望の民間気象会社へ転職することができました。

大学3年の就活時から入りたいと想い続けてきた会社でしたので、内定の結果をいただいたときは嬉しさが込み上げたのを今でも覚えてます。

起業の道へシフト

自衛隊の束縛生活から解放され、念願の志望会社に転職できました。

しかし、想い描いた絵は現実とかけ離れてました。

志望していた業務は天気情報をお店の商品販促に活用することでしたが、配属先の部署は単に気象予測するところでした。

当時は

「やりがいがない」
「給料の割りに労働時間が長い」

と感じていました。

このままだと惰性のまま仕事し、時間と労力がもったいないと感じていました。なので、 休日は起業セミナーのほか、マーケティングセミナーに積極的に参加し、次の道を模索していました。

ある日、転機が訪れました。

参加した起業セミナーに僕と同い年で、性格が似た好青年の講師と出会いました。その起業セミナーから1週間後に再び、同い年齢の講師と会って話をしました。

話をしていくうちに、

「この人と事業をやればうまくいく!」

と思うようになりました。

すると、その講師から

「成功している起業家と会ってみませんか?」

と誘いを受けました。

すぐさま、

「はい、ぜひ会いたいです!」

と答えました。

その日のうちに成功起業家と対面し、

「起業塾へ入りませんか?」

と入塾を薦められました。

起業家として成功するには入塾も必要なことなのかと思いつつ、価格はいくらかを考えていました。想定では半年間のプログラムで30万円ぐらいなのかと思っていました。

しかし、その起業家の口から出た金額は、『年間98万円』でした。想定よりも、かなり高額でしたので面喰いました。

そこまでのお金を払う余裕がないため、入塾するのをやめようと思っていました。

すると、その人から

「カードローンを借りれば、簡単に資金調達できるから大丈夫だよ」

と言われました。

当時は、カードローンの存在を知りませんでした。

ローンで借りたお金を返済すれば、

・銀行からの信頼が上がる
・借入可能金額を増やしつつ、
 利率を減らすことができる

と教えてもらいました。

今後、事業をやっていく中で銀行からの信頼を得ておくことは大事なことだと思っていました。

なので、

「とりあえず、試しにカードローンを借りてみるか・・」

と思い、三菱UFJ・三井住友・住信 SBIから合計200万円の融資を申請しました。

当時は会社員で保証があり、奨学金を除いて借金はゼロでしたので、審査OKで無事に融資を受けれました。

しかし、このことが後に借金生活に陥るキッカケになったわけです。

298万円を溶かす

起業塾に98万円の高額なお金を一括で支払って入塾しました。

その後に年利36%の投資案件を持ち掛けられました。起業塾を運営する会社の株を100万円で購入し、年間で36万円の配当を得るものでした。

頭の回転が速く10年にわたりWeb業界で成果を出し続けられている方からの提案で、かなり高い配当を受けられるということもあり、その話に乗っかりました。

そして、投資費用の100万円を指定口座に一括で振り込みました。

高額なお金の支払いは、これだけではありませんでした。

さらにその3カ月後・・

「ライティング講座を同塾内で開催するから、それに参加しませんか?」

とオファーをもらいました。

転職アシスタント、占い師、そして成功した経営者から

「あなたは高い文章力がある」
「文筆の分野で成功する」

と褒めていただきました。

この講座を受ければ、月収100万円も獲得できるようになれると信じ、オファーを受けることになりました。

しかし、騙されました。

6カ月間のライティング講座がスタートし、最初の2カ月程は講師の起業家が予定通りに講義を実施してくれました。

実際は講座が約束通りの日程で進まず、計画内容とかけ離れてたものになりました。それから間もなく、講座自体が自然消滅しました。

スタート当初は半年間の講座終了後、事業を展開して年間5000万円の売上目標を掲げて活動がスタートしました。受講生は僕も含めて7人でしたが、各人がゴール達成に向けて一生懸命に活動していました。

そんな想いを踏みねじ込むように起業塾を運営していた方たちは、受講生が支払った大金を奪い去りました。本当に無責任な行為を平気な顔でやってのける詐欺師でした。ものすごく頭がキレる人で、実績を残し続けているということもあり、皆がその人を信頼していました。

しかし、実際に結果を出し続けている証拠なんてどこにもありませんでした。

一緒に仕事をしていく中で判明したことがありました。

その人がビジネス素人から多額の現金を騙し取る手法を繰り返し行っていることでした。

詐欺講師の口から出てきた

「君なら1年以内に少なくとも月収150万円は稼げる!」

というのは幻想でした。

それから起業塾自体も知らないうちに終わっていました。

まだまだダークな話はありますが、ここではカットします。

その後、お金がなく借金だけが残っていたので実家の佐賀に戻るかどうか真剣に悩みました。

しかし、諦め切れませんでした。

「なんで、九州から千葉、そして東京に出てきたのか?」

と考えたところ、

起業して一早く成功するため

でした。情報の流れが早く、ビジネスで成功するための環境が充実している東京で事業をやると決めていました。

実際は現実が見えておらず、願望のまま安易に行動したことで大金を失ったわけです。

この手痛い経験を通じて

簡単に稼げる世界は存在しない

と感じました。

今後はライティングの能力を活かした仕事で独立しようと決めました。

それから半年間ほど、工事現場の警備をしながら起業の準備に取り掛かりました。名刺やHPの作成、営業ノウハウ、マーケティングやコピーライティングの勉強に日々、励みました。

独自の道を切り拓く

そして、2017年4月3日・・税務署に個人事業届を提出し、大学生の頃からの夢であった独立開業を予定より8年前倒しで達成できました。

自分の強みを活かし、お客様から感謝されるサービスを提供して貢献することを胸に起業しました。

喜びを感じると同時に、身の引き締まる思いでした。

これから一人で顧客を獲得し、お客様の売上・利益アップに結びつくサービスを提供していく

そんな想いで胸がいっぱいでした。 

開業から間もなく、セミナーで知り合った30代経営者からライティングの業務を受けることができました。

こんなに早く仕事を受注できるとは夢にも思っていなかったので、とにかく嬉しかったです。

「最初から事業がうまくいくのでは・・」

と淡い期待がありました。

しかし、先方が望む内容の記事を作成することができず、

「今後は契約を結びません」

と言われました。

正直ショックでした。

ただ、落ち込んでいる暇はありませんでした。なので、次の取引先を探すことにしました。

運よく起業塾時代から親交のある知り合いの方の紹介で、文章作成の仕事を受けることになりました。

「今度こそは、うまくいく!」

と自らを鼓舞させました。

しかし、この案件も頓挫しました。

先方から

「依頼した業務の報酬を25%値下げできないか?」

と申し出がありました。

案件の進捗を遅延させている上に、報酬を下げる要求があったことで この人とはビジネスをできないと思いました。ここで契約金額の値下げに承諾し案件を進めたとしても、また報酬の値下げなどがあると感じました。

このまま取引を進めたところで中途半端な結果に終わると感じ、業務の受注をキャンセルしました。

また、ゼロ地点へ振り戻しとなりました。

次は直接、個人の整体院や飲食店、それからスポーツジムに足を運び、訪問営業を始めました。

何者かわからない、実績もない若造が一人で営業に行ったところで当然、受け入れられるはずもありませんでした。

1日5件と目標を決め、その件数分、店舗へ向かい責任者と話をしました。営業を始めてから数日後、店舗に営業に行くのを辞めました。

人見知りで恥ずかしがり屋、営業もできない、実績が無い

ビジネス素人が対面セールスに挑んだところで、契約成立率は限りなく低いと感じました。

なので、戦略を変えました。

顔を合わせて営業するのは苦手ですが、メールなら大丈夫だと思いました。それからはメールで、HP制作会社や通販会社、情報商材販売者などにアプローチしていきました。毎日10 件ずつ無料オファーを含むメッセージを送っていきました。5通に1通は何らかのお返事をいただけました。

もちろん、そのほとんどが

「今はサービスを必要としていません」

という内容のものでした。

25件の送付メールに対し、1件の割合で

「無料で文章を書いてください」

と申し出がありました。

「よし、今すぐ書いて一早く相手に提出する!」

と意気込んで、文章作成に着手していきました。

仮完成したものを相手に届けていきます。

「このレベルのものを書いてもらえるなら、ぜひとも一緒に業務をやりませんか?」

と言ってもらうこともありました。

ただ、実際に金銭面で交渉が難航しました。

「ライティング業界の報酬相場よりも5分の1の低価格で業務をお願いします」

と依頼がありました。

業務に投じる時間と労力のバランスを考えると、とても請け負えるものではありませんでした。

ライティング業務の実績がないのに、プライドと求める報酬は高かったです。

結果的に半年間で単発の案件をいくつか受注しただけでした。

当然ながら、毎月が赤字状態でした。

ライター業で実績をほとんど出せず、毎月のように借金が膨らみ続ける生活を6カ月ほど送り続けてきました。

仕事の受注がほとんど無いけれども、文章を書く仕事がしたい想いが強く、事業の転換やサラリーマンへ復帰を当時は全く考えていませんでした。

しかし、

このままでは、借入金が底をつき、生活すらできなくなる

そんな不安・恐怖に駆られました。

窮地に追い込まれた状況で、転機が訪れました。

コピーライター方が運営するコミュニティで知り合った、物販で月利100万円を稼ぐ方から「Amazon物販のやり方」を教えてもらい、実践することになりました。

このことが、実績と安定収益をつくるキッカケとなりました。

おかげさまで、

月々の収支は黒字へV字回復

させることができました。

物販を始める前は・・商品の清掃~梱包、発送手続きが大変で面倒なイメージがありました(僕自身、不器用な人間であり・・)。

「コレやろう!」
「物販で稼げる!」

という気持ちは全くありませんでした。

しかし、その気持ちは覆されました。

不用品販売や実質0円で仕入れた商品をヤフオクやメルカリで販売できたことで、

「商品が売れる!」

という自信がつきました。

それから2年9カ月ほど物販を続け、実績と資金をつくりました。

一時はクレカとカードローンの借入金額が200万まで膨らみ、毎月支払う利息の高さに苦しみました。カードローンにいたっては毎月1万5000円の返済に対し、利息が8500円ぐらい取られてました。

支払い利息額の高さに怒り狂いました。

一早く借金を完済して状況を打開するために昼も夜も仕事することにしました。コンビニで夜勤のバイトを始め、給与をすべて借金完済につぎ込みました。

バイト先では、まともに挨拶もできない7歳年下の人間にコキ使わるなど、悔しさや恥じらいを感じながら仕事してました。

そんな生活を1年続け、借金を完済しました。

厚い雲の間から希望の光が差し込んでくるような感じがしました。

200万の借金を1年で完済できたことは大きな自信や勇気を与えてくれました。

それからは 3 年ほど前からの望みであった「電子書籍の出版」を実現するためにコミュニティに入ることにしました。そこで出版に必要なノウハウなどを学び、いろんな方々のサポートをもらいながら出版することができました。

処女作のテーマは、起業を続けられる“キッカケ”となった『物販』に関することでした。

これから副業や起業で実績やお金をつくる方に向けて出版した本に、購読者からたくさんのレビューをいただきました。 感謝や喜びの声をもらえたことで、自身の経験やノウハウを本にまとめて出版できて良かったと感じた瞬間でした。

周りの仲間やお客様が応援して下さったお陰で、

その後、9ヵ月間で4冊を出版し、すべての書籍でAmazonランキング1位を獲得

できました。

物販に取り組みながら書籍を出版したことが、後に大きな成果を生み出すことになりました。

出版で実績を出せたので、これからは他人の出版をサポートする側に回ろうと思いました。

実績も資金も十分得たところで

2020年7月、M&Aの仲介会社に依頼して2年9カ月ほど続けた物販を企業へ売却

することになりました。

起業した目的は、物販をやるためではなく、コンテンツの作成・販売、コンサルなど知識や経験を提供して貢献することでした。

事業の借金をすべて返済した後は、金儲けの為だけに売れる商品を安く仕入れて高値で売ることに違和感を覚えていました。

なので、無事に事業を譲渡できて正直、ホッとしていたのを今でも覚えています。

その後、オンライン上のプラットフォームを利用し、電子書籍の出版プロデュースを始めました2021年1月末の時点で、経営者や税理士を含む合計6名の書籍出版に携わることができました。

書籍の作成途中で急に取引をキャンセルされる方、納品後に連絡が取れなくなる方もいました。

それでもクライアント様に出版してもらい、Amazonランキング1位を獲得していただけたので、すごく嬉しかったです。

今後は、プラットフォームに依存せずに「個人がネットで情報配信を通じて稼ぐ仕組み」をあなたと一緒につくっていきたいと思います。

この想いをもって、いつも活動していきます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

また明日以降もメッセージを届けていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。


コバヤシ ヒロキ

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